「すまないが、それは受け取れない」


何も聞こえなくなった気がした。
セミの声だけが耳に残って、ひどくうるさい。ガーン、と頭上に重いものが落ちてきたような気がして、漫画みたいだと思った。
真田にそう言われた後輩らしいその女の子は、泣きそうな顔をして「すみませんでしたっ」と呟くように言って、走って行ってしまった。
泣きそうなのはこっちもだった。
廊下の曲がり角からわたしが見ているとも知らず、真田は小さくため息をついた。
・・・真田はラブレターを渡されるということが、ため息をつくほどに面倒くさいらしい。
右手に持っていた鞄を落とすまいと、両手で胸にぎゅうっと抱きしめた。

だってこの中には、真田へのラブレターが入っているから。












「おっ、来た来た!おかえり」


すぐに家に帰る気にもなれず、教室に戻ると、丸井が待ち受けていた。暑い暑いと漏らしながら、ノートをうちわ代わりに扇いでいる。


「部活は?」
「早めに終わったから、お前待ってた」


待ってた理由はわかってる。告白の結果を聞きたくて、わたしを待ってたんだ。
わたし以外に、このラブレターの内容を知っている人物が一人だけいる。それが丸井。丸井はわたしの隣の席で、最初はまったく仲良くなかったのだけれどある日突然話しかけられてそれから仲良くなった。


「お前、真田のこと好きなの?」


わたしはそう言われて激しく動揺した。
丸井と真田はテニス部で一緒だから、よく真田が用事を言いつけに丸井のところまで来ていた。
真田の顔を見て顔を赤くしているのを見られたのかな。
ガチガチに固まっているのを見られたのかな。不安になっているわたしを見て、丸井は肩にポンと手を置き、優しく息を吐いた。


「別にからかったりしねーよ。協力してやるから」


そう言った瞬間わたしの目がキラキラと輝き出してなんだかとてもおかしかった、と後に丸井は語る。
協力するって言っても、真田のプロフィールを教えてくれたりとか、試合の日程とかを教えてくれたりとか、その程度。


「あとは自分でどうにかするもんだろぃ?」


と、丸井は何か面白いものを見つけたかのように笑っていた。
そんな丸井が最後にしてくれたことが、ラブレターの文面チェックだった。特に真田の気に障るようなことは書いていなかったらしく、一発OKをいただいた。
話は本題に戻るが、丸井は、当然うまくいったんだろ?という目でわたしを見ていた。


「・・・」


何も言わないわたしを見て、丸井はおかしいと思ったらしい。
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がって、こっちまでズカズカと歩いて来た。


「どうなったんだよ」
「・・・」
「まさか・・・お前!」


丸井はハッとしてわたしの鞄を取り上げると、勝手にチャックを開けて中を漁った。
大事なものだから、クリアファイルの中にきっちり入れておくって決めていた。そのクリアファイルの中からラブレターを取り出して、丸井はため息をついた。


「なんで渡さなかったんだよ」
「・・・だって」
「心配いらねー、って。言ったろぃ?」


丸井は心底呆れたような表情をしていた。
今まで協力してくれていた丸井に悪くて、わたしは泣きそうになる。
丸井は自分の席に戻って鞄を肩に担ぐと、「俺帰る」と低く呟いてわたしの横をすり抜けて教室を出て行ってしまった。
・・・見捨てられてしまった。わたしの恋は今この瞬間おわった。そう思った。
だってわたしは、丸井がいないと何もできない。
ラブレターを書くように勧めてくれたのだって、丸井だった。そう気づいた瞬間、世界にわたし一人が取り残されてしまったような気分になって一気に涙腺がゆるんだ。


ミーンミーン


またセミの声。セミが嫌いになりそうだ。だってセミの声が聞こえる時って嫌な時ばっかり。
いやにセミに対しての苛立ちが募る。いつの間にか涙腺はきっちり元通りになっていた。けれど、悲しい気分はそのまま。
わたし一人じゃ何もできない。真田は、そういうのが面倒くさいんだ。
やっぱりテニス一筋なんだ。彼女なんて・・・。


「おい」


その時。背後から、たった今考えていた人物の声が聞こえて、わたしは心臓が飛び出そうになるくらい驚いた。
振り向くと、やっぱりそこには真田本人が立っていた。


「さ、なだ・・・」
「丸井はどうした」
「か、帰りました。今・・・たった今」


そう言うと、真田はまたあの面倒くさそうなため息をついた。
真田が丸井を探しているということは、本当はまだ部活は終わってなかったんだ。それでも丸井は、わたしのことを気にかけて待っていてくれたに違いない。
だとしたら、わたしは丸井に対して本当に悪いことをした。更に追い討ちをかけたように落ち込むわたしの頭の上に、ポンと暖かい感触があった。


「!」


おそるおそる顔をあげると、真田が眉を下げてこちらを見ていた。わたしの頭に手を置いて。


「どうした?そんな泣きそうな顔をするな・・・」


そう言う真田の表情が、いやに悲しげでわたしはひどく驚いてしまった。
真田の強気な顔や怒った顔ならいくらでも見ていたけれど、こんな悲しそうな表情は初めてだった。


「・・・丸井に見捨てられた」


ぼそりと本当のことを言うと、真田は真顔に戻った。


「そうか・・・」


真田の目は、ただ一点を見つめている。
あの悲しげな表情を壊して、いきなり真顔になったのは、真田が何かを見ていたからだった。
何があるんだろう。その方向に視線を向けて、わたしは愕然とした。

机の上に、丸井が放り出したまま例のラブレターが!

助かったことに宛名は裏面。
机に伏せてある。見られたら終わりだ・・・!わたしは急いでラブレターに手を伸ばした。
でも真田の方が速くて、ラブレターをその大きな手に取ってしまった。
そして裏返そうとする。まずい!


「ダメ!それは好きな人に・・・」


ハッとした。なんてバカなんだろう、わたしって!
今、真田が宛名を見てしまったら・・・。そこには真田の名前が書いてあるだけ。
真田本人の名前が。真田は、わたしの言葉も気持ちも無視して裏返してしまった。


「あーっ!」


今更後悔しても、もう遅い。真田は、それを見てひどく驚いていた。


「これは・・・」
「・・・真田、違うの。それ、返して。お願いだから」


自分でもよくわからない言い分で取り返そうとするが、真田は高い位置にラブレターを持ち上げて不思議そうに眺めている。
真田が大きすぎて手が届かなかった。子供のように手を上にばたつかせるけれど、取れるはずもない。
羞恥で泣きそうだった。


「お願い、返して」
「何故だ」
「なぜ、って・・・それは、違うの。それは・・・その」
「俺に書いたのだろう?」


どうしてそんなこと聞くの。
どうせ受け取らないのに・・・。この後、真田にフラれる。もう真田には近付けなくなる。
そう思うと、ひどく悲しくなって、涙が一滴こぼれおちそうになった。
その瞬間。真田が、わたしの左腕を強い力で引っ張った。
気づいた時には体中がふわりと暖かい空気に包まれていた。

真田が、わたしを、抱きしめている。

何が起こったのかわからずに固まっていると、真田はすぐにわたしを解放した。
不思議そうに見つめるわたしを見て、口だけでニヤリと笑う真田。


「ありがたく受け取るぞ」
「え、ちょっと待っ・・・」
「何だ。今更返せと言っても返さんぞ」


もしや・・・ただの手紙だと思ってらっしゃる・・・?
いや、でも、さっき好きな人にって言っちゃったし、抱きしめてくれた意味もわからなくなるし。
なんなの一体!混乱状態に陥っているわたしの頭に、また暖かくて大きな手の平がポンと乗った。見上げれば、優しく微笑んでいる真田の顔。


「これは好きな奴に渡すものだったのだろう?」
「・・・」
「答えんか」


途端に真田の顔がまたいつもの厳しい表情になって、わたしは慌てた。


「は、はい!」
「宛名は俺だ」
「・・・うん」
「それは・・・お前が俺の事を、好いているということではないのか?」
「・・・」
「おい」


真田の怒った顔を見るのは嫌!早く答えなきゃ・・・。
そう思ったけれど、わたしの口はどうしても動いてくれなかった。
真田は諦めたのか、小さく息をつくと、ラブレターを手にしたまま教室の扉を開けた。


「ま、待って!それ・・・」
「何だ。まだ何かあるのか?これは俺宛に書いたのだろう」
「・・・え、っと」
「俺はお前が好きだ。だからこの手紙は読ませてもらう。何か不都合なことがあるのか?」

・・・は?

真田が・・・わたしを?ポカンと口をあけていると「馬鹿みたいな顔をするな」と言われてしまった。


「不都合があるのか、と聞いている。返事はどうした」
「は、はい!ないです!」


急いでそう答えると、真田は嬉しそうに笑った。


「では、また明日」
「は、はい。さようなら・・・」


・・・真田は行ってしまった。待って待って。ちょっと頭の中を整理しよう・・・。
ラブレター、受け取ってもらえた。真田がわたしを、好き?わたしも真田が好き?

「心配いらねー、って。言ったろぃ?」

ふと思い出す丸井の言葉。そっか。丸井は最初から知ってたんだ。両思いだって。
知ってて、協力してくれて・・・。そう思うと世界のみんなが味方のように思えてきて、笑いがこみ上げてきた。

ミーンミーン

外からは、セミの声。
あ。そっか、夏かぁ。夏休みは真田とどこへ行こう!なんて。
気の早いことを考えながら、真田の連絡先を聞くために携帯電話から丸井の番号を呼び出した。
彼にはもうちょっとだけ協力してもらおう。




(20110816)