「おはようございます、さん」
「おはよう。柳生くん」


柳生くんは、いつも早朝、家までわたしを迎えに来る。
ただのテニス部マネージャー(それもサボリがち)のわたしは、レギュラーの選手である柳生くんと同じ時間に登校する義務はない。
でも、柳生くんは毎日わたしを迎えに来る。


『心配なんです、さんが・・・』


付き合い始めた一週間前。
彼は頬を赤く染め、甘い声でわたしにそう言ったが、朝が苦手なわたしにとってその行為は迷惑以外の何者でもなかった。
目が覚めているんだか覚めていないんだかわからない状態でふらふらと歩くわたしを、柳生くんは少し距離をおいて心配そうに見ている。
そんなに心配なら、手を引いてくれれば良いのに。










「お前ら、本当に付き合ってるんか?」


仁王は机に肘をついて、訝しげにわたしを見る。
話題の人である柳生くんは、今はコートに出てるみたいだった。


「付き合ってるよ」


大事にしてくれてるよ、とも言おうとしたが鼻で笑われそうだったのでやめておいた。


「ふーん・・・」


仁王はがたっ、と音を立てて椅子から立ち上がると、わたしが座っている椅子の背後に立つ。


「距離がの」
「何?」


仁王は少し黙ると、そのままわたしに覆いかぶさってきて、腕をわたしの首の前でクロスさせる。


「恋人同士には見えない、と思ってな」
「・・・ちょっと。やめてくれる?」


わたしは仁王の腕を振り払う。
仁王は少し口をへの字に曲げて、わたしの向かいにしゃがみこんだ。


「柳生と、こういう事せんのか?」
「・・・しないよ」


した事ない、が事実であるが言えなかった。
わたしだって一応普通の女の子だし、初めて出来た恋人なので、抱きしめあったり、手を繋いだり、キスしたり、したい。
でも柳生くんは付き合う前と同じ距離でしか接してくれなかった。
仁王の方をちらりと見やる。


「ん?なんじゃ?」


どうして柳生くんは、わたしに指一本触れてくれないのか。
仁王に相談してみようかと迷ったけれど、やめた。どうせからかわれるのがオチだ。


「・・・なんでもない。帰る」
「ちょっと待ちんしゃい」
「何?まだ何か、」
「そろそろ戻るころじゃ」


仁王が壁にかけてある時計を見てそう言った途端、部室のドアノブがカチャリと動いた。
ドアの向こうから姿を見せたのは、話題の張本人の柳生くんだった。


「・・・さん、まだ残ってたんですか」
「お前の事待ってたんじゃよ」


待ってたつもりなんてない!わたしは口を開きかけて、やめた。


「すぐ着替えますから。少しお待ちください」


柳生くんは手早く着替えると、ドアの前で立って待っていたわたしの肩をやんわりと押した。
わたしは少し驚いてよろけてしまった。
なんだかイメージとは違うけれど、柳生くんが初めてわたしに触れた瞬間だった。
目を見開き(アホヅラだったことだろう)柳生くんを見上げると、柳生くんは空いている手の中指でさっと眼鏡をあげて仁王に向き直った。


「・・・あなたも、早く帰ることです」


冷たくそう言うと、仁王から返ってくるであろう言葉を待つ間もなく部室から出る。
そして、もう一度わたしの肩を優しく押した。


「帰りましょう」


そう言うと、柳生くんはわたしの肩から手を離した。
今まで手があった部分が寒くなったけれど、アンコールを要求できるほどわたしは器用じゃなかったし、何より柳生くんの目が怖かった。

無言のまま、しばらく歩いた。
それはあと10メートルほどでわたしの家が見えようか、という時に起こった。
柳生くんが突然わたしの手を引っ張った。
強い力で引っ張られ、わたしは柳生くんと向き合う形になる。
ふらりとよろけると、柳生くんがわたしの右腕を掴んだ。


「・・・・・・・・・」


柳生くんは何も言わない。
何が起こったのかわからず、きょとんとしていると、柳生くんはその右腕を力いっぱい引っ張った。
それによってわたしは前によろけ、柳生くんの胸に体をすっぽり埋める体勢となった。すかさず柳生くんの腕が背中にまわる。

・・・抱きしめられている。

わたしは少し混乱気味だった。
柳生くんがわたしに触れてくれないのはなぜだろう、と悩んでる矢先に、いきなりこれだ。
まず手を繋ぐ、とか。そういうスタートでわたしは大満足だったはずなのに。
わたしは混乱しているのを悟られないよう、柳生君の二の腕に手をおいた。


「ど、どうしたの?柳生くん」
「ッ!」


わたしがそう言った途端、柳生くんははじかれたように、わたしから離れた。
呆然として見ていると、柳生くんの顔がみるみる赤く染まっていく。夕日のせいだけじゃない。


「あ、その・・・も、申し訳ありません・・・!なんて事を・・・!」


柳生くんはこの世の終わりのような口調で、そう口にする。
困ったような、嬉しいような、微妙な表情。
わたしの気のせいかもしれないけれど、その中に、なんて事をしてしまったんだ、という表情も見てとれた。


「あ、のー・・・気にしてない、から」


気にしてない、というのもおかしい。わたしは柳生くんに触れられたかったはずだ。


「というか、その、嬉しいです」


自然と笑顔がこぼれていたと思う。
柳生くんはわたしを見た途端、倒れてしまうんじゃないかってくらい更に顔を真っ赤にしてしまった。


「その、申し訳ありませんでした!では・・・失礼します」


いつも家の前まで送って行ってくれるのに、柳生くんはくるりと踵を返して走って行ってしまった。
その体がいやにふらついていて、わたしは心配になってしまう。
まるで朝と立場が逆だ。
でも、柳生くんもいつもこんな気持ちでわたしを見ているのかと思うと、なんだかすごく嬉しくなった。







(20130810)