「あーあ、勿体ないなぁ」


何気なく渡り廊下で拾ったブレザーのボタン。
思えばこれが悲劇の始まりだったんだよ・・・。





















先輩方も卒業か・・・。

先の廊下でガヤガヤ騒がしい中を見れば、そこには赤也がいた。
卒業でもないのに持て囃されてるとは意味がわからない。

わたしは手の中のボタンを見つめた。
一体、誰のボタンだったんだろう?しかも、何故こんな所に落ちていたんだろう。
もしかしたら人気の先輩のボタンで、揉み合ってるうちに飛んでしまったのかもしれない。

・・・まぁ、いくら考えてもわからない事。
そう思ってボタンをポケットに突っ込もうとした瞬間だった。


「あ、それ!」


赤也と一緒に渡り廊下の向こう側にいた女の子が、わたしの手を指差しながらこちらへと近づいて来る。
そしてわたしを凝視した。


「それ、少し見せてくれない?」
「あ、はい」


言われた通り、握り締めていた手を開くと、女の子は「やっぱり!」と歓喜の声を上げた。


「それ、柳生先輩のだ!」
「あ、そうだったんだ。」


よくよく見れば、ボタンの裏にH.Yと小さく彫ってある。
そういえば、部室で丸井先輩が「当日もみくちゃにされる可能性が高いから、こうしておくと後ですぐわかる」と言って彫っていたのを思い出した。

柳生先輩がボタンなんかに拘るように見えないから、多分ついでにと丸井先輩が彫ったんだろう。
女の子は、わたしの顔を真剣な表情で見つめていた。


「それ、私にくれない?」


元々落ちていたものだ。だけど、一応は柳生先輩のもの。
メールして渡して良いものか聞いてみようか。いや、今は丁度揉みくちゃタイムのはずだ。すぐ返事が来るとは思えない。
ダメで元々。ちょっと電話してみようと、コールした瞬間だった。
背後から、柳生先輩の携帯電話の着信音が聞こえた。ただの電子音なものだから、廊下によく響く。


「あ、柳生先輩!丁度聞きたい事、が・・・」


わたしは思わず話しかけるのを躊躇ってしまった。
だって、柳生先輩と来たら全力疾走でこっちへと駆けてくる・・・!
しかも後ろにはたくさんの女の子を引き連れて。一体、何が!?


「申し訳ありません。彼女、お借りします!」


柳生先輩は、早口でわたしと話していた女の子にそう言うと、何故かわたしの体を抱き上げて走り出した。
追いかけてくる女の子達から悲鳴が上がる。キャー!の類ではなく、キィー!の類の。


「あの、柳生先輩!?」
「申し訳ありません。少々付き合って頂きます・・・!」
「え!?なんでー!?」


わたしの叫びも虚しく、わたしは柳生先輩に抱き上げられたまま女の子達に鬼のような形相で追いかけられる事となった。
これからの学校生活が怖い・・・わたし、イジメられるんじゃないだろうか。

柳生先輩は曲がり角を曲がり、即座に男子トイレへと逃げ込んだ。
行き止まりにぶつかった女の子達が「見失った!」と悔しがる声が聞こえる。
柳生先輩は大きくため息をつくと、わたしに向き直った。


「レディをこんな所へ連れて来てしまうとは・・・」
「紳士失格ですね」
「全くです・・・本当に申し訳ありません・・・」
「いいえ。今のは仕方なかったと思います」
「貴方が、話のわかる方で助かりました」


一体何故こんな事態になっているんだろう。
ふと、柳生先輩のブレザーに目を向けると、やはり第二ボタンだけがない。
テニス部のレギュラー選手だったというのに、他のボタンが残っているのは不自然な気がした。


「柳生先輩、どうしたんですか?」
「聞いて下さいますか」


柳生先輩は、すごく困った顔をしていた。
わたしが「はい」と頷くと、柳生先輩はため息を織り交ぜながら話し出した。


「実は仁王くんが、彼女達の前で『私は仁王くんではない。彼に頼まれて変装している柳生です』と言ったらしいのです」
「ああ、それで・・・」
「彼女達は、私の方が仁王くんだと思い込み、追いかけているわけです」


なるほど納得だ。

仁王先輩は途中で相手をするのが面倒になったに違いない。
それにしたって柳生先輩だって人気があるのだから、仁王先輩のブレザーにはもうボタンは一つも付いていないだろう。
にしても・・・どうしてこのボタンが落ちていたんだろう。
手の中を見つめていると、柳生先輩は一緒に覗き込んで「あっ!」と声を上げた。


「それは・・・私の物ではありませんか!」
「あ、はい」
「良かった。隠しておこうと思ったのですが、落としてしまったのです。返して下さいますか?」


柳生先輩は異常に焦った様子で、わたしからボタンを取り返そうとしている。
わたしは急に返すのが惜しくなってしまった。わたしだって本音を言えば、柳生先輩のボタンが欲しい。


「これ、わたしにくれませんか?」
「いけません!返したまえ!」


すごい剣幕で怒る柳生先輩。
わたしはびっくりして、泣きそうになってしまった。
それを見た柳生先輩は、ハッとして「すみません!」と言って慌てている。


「他の女の子にあげちゃうんですか・・・?」
「そういうわけではありません。・・・実は話にはまだ続きがあるのです」
「え?何ですか?」
「私のフリをした仁王くんが『仁王くんは彼のブレザーの第二ボタンを取った人とデートをするそうです』と言ったようで・・・」


仁王先輩は徹底的に柳生先輩を苦しめていると思う。
何か恨みでもあるんじゃないかとすら思ってしまう程だ。柳生先輩は、がっくりと項垂れている。


「あ、でも、それなら第二ボタンをわざと渡してしまえば良かったんじゃ?」
「そうすると仁王くんは、うまい事私を替え玉にしてデートに行かせるに違いありません!」
「ですよね・・・」


仁王先輩なら、それくらいやるだろう。可愛い子だったら、自分で行くかもしれないけど。
わたしは納得して頷いた。


「でも、柳生先輩。この第二ボタンどうする気ですか?」
「捨てます」
「えぇっ!?」
「実は来年度入学する従兄弟に制服を差し上げる手筈になっていたのでボタンは守っていたのですが、止むを得ないでしょう」
「ど、どうして捨てちゃうんです!」
「このボタンが存在すれば、私は見ず知らずの女性とデートをしなくてはならなくなるのです」


確かにそうだけど・・・勿体なさすぎるよ!

大体、柳生先輩はブレザーのボタンを全部守りきれるとでも思っていたんだろうか。
流石に柳生先輩でも無理だと思う。さっき見たら、あの真田副部長ですらボタン全部なかったし。
諦めて、ボタンだけ全部付け替えた方が絶対楽だよ・・・!
わたしは諦めきれずに、ボタンをギュッと握り締めた。


「柳生先輩。コレ、隠しておきますから、わたしに下さい」
「ダメです」
「なんで!」
「・・・貴方がそれを持っていれば、仁王くんとデートをする事になるかもしれません・・・」


柳生先輩は俯きながら、そう言った。
不思議に思って顔を覗き込むと、耳まで真っ赤で、わたしはすごく驚いた。


「私はそれが嫌です。ですから、お願いです。それは私に返して下さい」


柳生先輩は、優しい表情でわたしに手を差し伸べていた。
そんな甘い顔をするなんて、ズルイ。自惚れそうになってしまう。
わたしはゆっくりと柳生先輩を見上げた。


「柳生先輩・・・」
さん。私は、貴方が・・・」




「すいません。やっぱりコレ欲しいんで、貰います」




「え?・・・あっ!さん!」


わたしは素早く柳生先輩の体を避けると、男子トイレから飛び出した。
すると、待ち伏せしていたらしい女の子達が一斉に「あっ!」と声を上げる。
どうせ柳生先輩が男子トイレから顔を出して、女の子達はそっちに集中するだろう。

・・・そう思ったのは甘かった。

柳生先輩は予想通り顔を出したけれど、女の子達は目ざとくブレザーに目を向けてしまったらしい。
口々に「ない!」と叫び、矛先はわたしへと向いた。わたしは全力で逃げた。女の子達も全力。




・・・どうしよう。

多分、今、とてつもなく取り返しにつかない事になっている。
全速力で走るわたしを追いかける、たくさんの女の子達。その後ろに柳生先輩。
すれ違う人達が目を見開いてわたしを見ていた。


「きゃー!」


声を上げたから、どうなるってわけでもない。
それでもわたしは声を上げずにはいられなかった!だって怖いじゃない!
と、わたしの背後から腕が伸びて来た。

誰!?

声を上げる間もなく、わたしは口を塞がれ、体を暗がりへ引き込まれてしまった。


「んー!んー!」
「落ち着いて下さい。さん」
「・・・柳生先輩!」


一体何故ここに!?さっき、わたしの後ろにいたのに!
こっそりと廊下に目を向けると、柳生先輩の姿はやっぱり消えていた。
女の子達は「消えた!」と騒いで、辺りを見回している。


「先回りしたのです」
「そうでしたか・・・助かりました」


ふぅ、と汗を拭おうとすると、柳生先輩はポケットからハンカチを取り出して、わたしの額を拭ってくれた。
申し訳なさそうな表情の柳生先輩。


「申し訳ありません。私のせいで、こんな・・・」
「気にしないで下さい。あっ!ボタンは返したくないです」


ボタンをぎゅっと握り締めて胸元で守るようにしていると、柳生先輩はその上からわたしの手を優しく包んだ。
えっ!?と思う間もなく、柳生先輩は片手でわたしの耳元をくすぐるように撫でた。


「お詫びに、キスを・・・させて下さいませんか・・・?」
「き、キス!?」
「お願いです・・・」


そんな顔するなんて・・・ずるい。
ゆっくりと目を瞑った瞬間だった。




「何をしているんです!!!」




振り返ってわたしは驚愕した。え、柳生先輩が二人!?
考えたところではたと気付く。わたしは目の前の柳生先輩を突き飛ばした。


「何するんですかっ・・・仁王先輩!」
「ほーう・・・俺と気付いたら即行で突き飛ばすとはのう・・・ちょっと酷いんじゃなか?」
「どっちがですか!」


やっぱり!突き飛ばした拍子にカツラがずれて、そこから銀色の髪の毛が覗いた。
じりじりと後ろに下がると、トンと柳生先輩にぶつかってしまった。
振り向くと、柳生先輩は僅かに怒っているようだった。


「ボタンを、返しなさい」
「嫌です。わたしだって柳生先輩のボタンがほしいです!」
「いけません」
「どれ、俺が抑えといちゃろ」


前からにゅっと腕が突き出て、わたしの体を抱き締める。
抱き締めながら仁王先輩は耳元で「お前さんの体、柔いのう」と呟いた。


「へ、変態!離して下さい!」
「まぁ、落ち着きんしゃい」
「離れたまえ、仁王くん!汚い手でさんに触らないで下さい!」
「なんじゃ人を変態みたいに言いよって。お前の為にやっとるんじゃ」
「それならすぐに離したまえ!」


あ、ラッキー!仁王先輩の腕がゆるんだ!
二人が口喧嘩している間に、わたしは再び逃げ出した。


「あっ・・・!お待ち下さい!」


待てと言われて待つものか!

屋上へと続く裏階段の扉を抜けて、時間稼ぎにとすぐに思い切り閉めた。
少し上ったあたりで、扉が再びキィと開く。
追いかけてくるなんて・・・柳生先輩、いい加減諦めたらいいのに。


「お願いです、さん・・・お待ち下さい!」
「いやです!そんっなに、わたしに第二ボタンもらわれるの嫌なんですか!?」
「ッ・・・そうではありません!止まりたまえ!」


柳生先輩め。言葉が詰まってた!わたしの事、嫌いなの・・・?
そう思うと、どんどん悲しくなってきて、わたしは泣いていた。


「お待ちなさい!」


突然腕を引っ張られて、わたしの体はぐらりと揺らいだ。
柳生先輩の腕が、わたしの体を抱き止める。
腕を強く拘束されて、両手も握られて、まったく動けない。


「は、離して、下さい・・・お願いっ」
「・・・泣いているのですか?」
「泣いてませんっ」
「では、こちらを向いて」


無理矢理、腕の中で体を反転させられて、わたしは無我夢中で俯く姿勢をとった。
でも、暖かい手で頬をフワリと撫でられると、急に力が抜けてしまう。
その手で、わたしの頬は優しく掬い上げられた。
ゆっくりとまばたきをして涙を払うと、そこには悲しげな表情の柳生先輩。


「・・・泣いているではありませんか」
「すみません・・・」
「どうして貴方が謝るのです。ごめんなさい、怖かったのですか?」
「違います!柳生先輩が、わたしの事嫌いなのかもって考えると悲しくなっちゃって・・・」
「・・・私に、」


いつの間にか腰に回された腕に力がこもる。
近付いた体。柳生先輩の制服が肌に当たるだけで、なんだかドキドキする。


「私に嫌われると、悲しい・・・と?」
「はい。わたし、柳生先輩が好きだし・・・悲しいです」
「え?」
「好きなんです・・・」


この少しの間が、永遠のように感じた。
どれくらい経ったかわからないけど、ぼそりと呟いた柳生先輩の言葉がやけに大きく木霊する。


「・・・私も、」
「え?」
「私も、貴方に泣かれると悲しい。貴方が好きなので」


柳生先輩は優しくわたしの体を抱き締めて、じっと目を見つめてきた。
すっと手早く耳の後ろに手を差し込まれると、気持ち良くなってわたしは自然に目を閉じた。
柳生先輩は、至極優しいキスをしてくれた。
唇を離すと、柳生先輩はこつんとおでこをぶつけて、わたしの手の中のボタンを弄ぶように転がす。


「まだ、これが欲しいのですか?」
「思い出になりますから、欲しいです」
「これが仁王くんとのデートチケットだとしても?」


そう言われると、答える事が出来ない・・・。
迷っていると、柳生先輩はわたしの頭を優しく撫でて笑った。


「もっと素敵なものをたくさん差し上げますよ、貴方の望む事ならなんでも」
「・・・それなら、それはお返しします」
「いい子です」


柳生先輩は、わたしの手からボタンをむしりとると窓から遠くへ放り投げてしまった。
その手で、またわたしを抱き締めてくれる。


「思い出なら、これから二人でつくりましょう」
「・・・柳生先輩」
「さぁ、デートでもしましょうか?私と」


差し出されたその暖かい手は、わたしを幸せの道へと導いてくれる。絶対。
大好きなその人の手の上に、ふわりと桜の花びらが舞った。




(20180301)