「帰れよ」





言い放った途端、病室の空気が凍った。
丸井辺りが「せっかく来たのに」と騒ぎ出すかと思ったのに・・・なんて、嘘か。
こうなるの、わかってて言ったよ。


「・・・具合は、」
「見ればわかるだろ。帰ってよ」


ぴしゃりと言い放つと、真田が口を噤む。

決して辛いなんて言いたくなかったけど、唇の隙間からぜいぜいと息が漏れていた。
適当に睨みつけた空間に偶然いた柳生の、下がった眉が、また腹立たしく感じた。
その横に立って、俯いている、うちのマネージャーにも腹が立つ。
言い返せばいいだろ。お前なんか、滅多に見舞いになんて来ないのに、折角来たらこんな事言われて、嫌だろう。


「精市、無理をするなよ」
「余計なお世話だよ」


蓮二はみんなを引き連れて、病室から出て行った。
ドアの前で、がただ一人、立ち尽くしていた。


「聞こえなかったかな。帰れって言ったよ」
「ねぇ幸村、」
「お前の声も聞きたくないんだ」


彼女は泣き出す事はないとわかってた。
俺にも堂々と意見を言うような強気なマネージャーだった。

予想通り、ムッとしたような顔をして、蓮二に引きずられて行った。
それを見届けてから、大きく息を吐く。

もう、最近ではテニスバッグすら見たくない。
治らないだって?もうテニスが出来ない?

・・・ふざけるなよ。


ぎり、と歯を食いしばった途端、ドアが再び開いた。


「・・・本当に話を聞かない部員が多くて困るよ」
「部員ではなく、友人として見てくれないか」


ひらひらと手を振って、蓮二は、「何も持っていない」と微笑んだ。
背中にあったテニスバッグが、なくなっている。
むしゃくしゃしていたから、「糸目」と悪口を言ったけど、蓮二は、「ちゃんと見えている」と笑うばかり。


「もういいや。座れば」
「ああ。邪魔するぞ」


丸椅子を引っ張って、柳は俺を見据えた。
薄く開いた目は、俺を非難しているように思えた。


「あの態度はどうかと思うぞ」
「わかってるよ、わかっててやったんだ。それを蓮二だってわかってるはずだ。それもわかっててやった」
「そんな事はわかっている。話を混ぜっ返すな」


少しイラッとしたのがわかって、笑うと、蓮二はからかわれたにも関わらず、笑顔を浮かべた。
ああ、そんなにも俺は最近笑ってなかったんだ、と、ふと気付く。


に、もう少し優しくしてやってくれないか」
「ふーん、他の部員はいいんだ」
「もうこの際、いい。弦一郎など好きに苛め抜くといいさ」
「本当にやるよ?」
「勝手にしろ」


サイドボードにあったリンゴを手に取ると、蓮二が素早く奪い去った。
「今、握り潰すと思っただろう」と言うと、「わかってるなら、さっさとナイフを取れ」だって。
リンゴと一緒に置いてあったナイフを手渡すと、器用にくるくると剥いていく。


「どうしてが出てくるのかな。アイツ、俺の事全然心配なんかしてないだろう」
「してるさ、誰よりも」
「ふぅん」


興味なさそうに呟いたのが気に食わなかったのか、蓮二はムッとした表情をよこした。
わざとらしくそっぽを向くと、「真面目に聞け」と怒る。


「はいはい。何?」
「アイツが見舞いに来ない事を、どう思う」
「ただ単に俺に興味がないだけだろう。さぞ過ごしやすいだろうね、うるさい部長がいなくて」
「違う。今、あいつは部活を休んでいる」
「は?」


サボってんじゃねーよ。
という言葉が出そうになったけど、蓮二のあまりに真面目な表情に気付いて、口を噤んだ。


「というのも、仕事にならない。お前がいなくなった次の日からだ」
「・・・どういう事?」

「ミスばかりだ。は一日中ボールやらドリンクやらを引っくり返して過ごしていた。部誌も書かなかった。スコアも真っ白だった。だから、暫く来るなと言った」

「俺がいなくなって、気が緩んだんだろ」
「どうも違うようだ。弦一郎が明日から来るなと怒鳴りつけた時に、あいつはこう言った」



―――幸村が戻ってきたら、わたしも戻ってきてもいい?



「・・・どうして」
「わからないのか。お前が心配で仕方がないんだろう。テストの点数もがた落ちだと弱弱しく笑っていたぞ」


そんな素振りを微塵も見せなかったを不思議に思う。
以前、一度だけ一人で見舞いに来た事があった。
は、「幸村がいなくても部は回ってるよ」と平気そうに笑っていて、ああ、コイツは相変わらずだな、なんて思っていたのに。


「・・・屋上に行くよ」


手を貸すと、俺が怒り出す事をわかっていたんだろう。
蓮二は剥いただけのリンゴを少し齧ると、ドアに手を掛けた俺の背中に声を掛けた。


も向かわせていいだろうか」
「・・・うん、お願い」


ふふ、と薄く笑う声が聞こえる。
からかってるなら、ぶっ飛ばすよ。
振り向かずに歩みを進めたけれど、背中に、「ありがとう」という優しい声が響いた。















「やあ、来たね」


べンチから立ち上がった途端、足元がふらついた。
思い通りにならない体にイライラしつつも、前方に視線を戻した。
は、すごく驚いた顔で俺を見つめていて、すぐに走り寄ってきた。


「大丈夫!?」
「お前ね、病人扱いしないでくれる」
「・・・」


絶対、「だって病人じゃん」って思ってるだろう。
じっと目を見ると、は慌てて視線を逸らした。


「・・・調子、どう?」
「悪いね。主に機嫌が」
「テニス、」
「何?」


俺の目付きに怯んだのが、わかる。
蓮二の事だから、テニスは禁句だとか言っておいてると思ったのに。
は、俺から目を逸らさなかった。

こく、と喉を鳴らしてから、口を開く。


「退院したら、相手してね」
「・・・俺に勝てると思ってるの?」
「思ってない、けど・・・幸村と、テニスがしたいの」


嫌味か、と口を付いて出そうになった。
もうテニスが出来ないとか言われてるの、知らないのか?
そう言ってやったらどうなるだろう。これからは真田が部長だよ、なんてね。
顔を上げると、今度はが俯いていた。

どこ見てるんだと声を掛けようとした途端、の顔から水滴がぽつんと落ちて行った。


「・・・ねぇ、何泣いてるんだよ」


の事だから、「別に泣いてないよ」と返ってくるかと思ったのに。
意外にも、は、ぐず、と鼻を鳴らして小さな声で泣き始めた。
驚いている俺に対する、「何見てんの!」なんて減らず口も、今日はない。


「・・・早く、元気になってね」
「いきなり何」
「わたし、幸村と夕日を見れて嬉しい」


見上げた先の、オレンジと群青色のコントラスト。
綺麗だったけど、の方が気になって集中出来ない。
拭く事もせずに、コンクリートに染み込んでいく涙を、何故かもったいないと思った。


「部活が終わった後に、幸村と見る夕日が好きだった」
「・・・そう」

「事務的な事しか話さなかったけど、それでも、幸村と一緒に見てるのが、好きだったの。一日で一番好きな時間だったのに、」

「泣くなよ」


言葉に詰まったは、振り向いて、ベンチに座る俺を見て、また泣きそうな顔をした。
「幸村の前でなんか、一生泣かないよ」なんて言っていたは、どこに行っちゃったんだろう。


「痩せたね、幸村」
「そうかな?元々太りづらいんだ」
「ねぇ、幸村。ケーキ、好き?」


突然、ぽつりと呟くような言葉に、ぱちくりと瞬きをしてしまった。
は、真っ直ぐ、薄く浮かぶ月と夕日を見上げていた。


「前に真田が買ってきたの、丸井にあげちゃったでしょ?」
「ああ・・・あれは丸井が食べたがっていたから、あげただけ」
「じゃあ、嫌いじゃないんだね?」
「ああ、そうだね。嫌いじゃないよ」
「次来る時、買ってくるから、みんなで食べよう」


顔を上げると、は不安げな顔をしていた。
本人は平気な顔をしているつもりなんだろうけど、拳を強く握っていて、爪が白くなっている。
彼女の爪が桜貝みたいで綺麗だと思っていたから、俺は少し残念に思った。


「そうだね。また、ここで食べようか。夕暮れ時に」


ぱぁっと明るくなった表情と、緩んだ拳と、薄いピンク色の爪を見て、安心した。
ベンチに座るように、横を叩いて促すと、は微笑を浮かべながら、嬉しそうにそこに座った。


「心配しなくていいよ」
「でも、」
「すぐに元気になるから」
「幸村・・・」
「信じてないね。当たり前だろ、俺を誰だと思ってるのさ」
「信じてるよ。幸村の事、信じてるから」


俺なんかより、ずっと消え入ってしまいそうな
危うく抱き締めそうになるくらいだった。
ぽん、と頭を撫でる程度に留めたけど、は驚いて俺を見上げてた。


「さ、もう帰りなよ。暗くなるから。玄関まで送って行こうか」
「・・・ありがとう、幸村。でも大丈夫。戻って休んで」
「また病人扱いする」
「心配なの。当然だよ」


まぁ、いいか。
髪を梳いていた俺の手が離れると、は唇を少し噛んでから、歩み出した。
じっと背中を見つめていると、不安そうに振り返る。


「幸村。待ってるから。早く戻ってきて・・・」


微笑んだ
やっぱり消えそうで、俺は走り寄って抱き締めそうになった。



―――なんで、そんな顔するんだよ



聞こうにも聞けなかった。
目の前のは、今にも泣き出しそうで、「それじゃ」と無機質な声で呟くと、走って行ってしまった。

どうして、好きだって言ってくれないんだよ。
俺も、って言えないじゃないか。








(20170601)